進路の針路は新路開拓

 五年生のうちから進路希望調査なんて、随分気の早い話だと思う。とは言っても、クラスメイトの大半は、普通に「美空中学校」と書くのだろう。
「おーほっほっ! わたくしは、当然カレン女学院に進学しますわ! そこでピアノのプロになる為に、専門的な指導を受けるんですの!」
 勿論例外はいて、見ての通りえりかちゃんは私立の中高大一貫校に進むようだ。彼女やお姉ちゃんの友達のはづきちゃんのように、金銭的に余裕がないと厳しいのだけれど。
「ぽっぷちゃんはどうするの?」
 くみこちゃんが、あたしの進路希望調査の紙を覗き込んで来た。
「ピアノを続けるなら、カレン女学院を受けるのがいいんじゃない?」
「……あたしは」
 正直に言うと、あたしはどちらにするかで迷っていた。あたしはピアノが好きで、もっと上達したいと思っている。だからえりかちゃんのように、本格的なレッスンを受けてみたいという気持ちはある。でも、あたしにとって、その道を選ぶのはためらわれた。
 だから、あたしはくみこちゃんにこう言った。
「あたしは、普通に美空中に進むよ。だってうちにお金ないし、知ってる友達が少ないのも嫌だしね」
「それもそうか。やっぱりぽっぷちゃんって、しっかりしてるね!」
 くみこちゃんは納得したようだったけど、
「あ…あはは」
 あたしは苦笑いをすることしかできなかった。

 いつもの場所で、ピアノを練習する。受験を控えているお姉ちゃんは、その傍らで問題集と向き合っている。「自分の部屋で勉強すればいいのに」と言ったことがあったが、それだと眠ってしまうと返された。
 あたしは今度のコンクールに向けた曲を弾きながら、お姉ちゃんに話し掛けた。
「お姉ちゃんは、やっぱり美空高に進むんでしょ」
「うん、そのつもり。……私立だと、お父さんとお母さんに負担かけちゃうからね」
「……だよね」
 あたしもお姉ちゃんのように、美空中、美空高と進学することになりそうだ。別に不満はないし、むしろ安心感があるくらいだ。
 でも、あたしは心のどこかで、「本当にそれでいいのか?」という迷いがあった。プリントの提出は来週だから、まだ考える時間はあるのだけれど。
 とにかく今は、課題曲の練習だ。だいたいの譜面は弾けるようになったから、後は部分部分を向上させなくてはいけない。
「ずいぶん上手くなったね」
「え?」
 急にそう言われたので、あたしは一瞬手が止まった。
「そりゃあ……まあ、二週前からこの曲をやってたからね」
 あたしはそう返して、続きを弾こうとしたけど、
「そうじゃなくて。……ピアノ、いつの間にかとっても腕を上げてる」
「……どうしたの、急に」
 椅子に座ったまま、お姉ちゃんの方を振り返った。
「あはは。いつの間にか、ぽっぷに越えられちゃったな、って思って」
 お姉ちゃんは少し伸びてきた髪をいじりながら、呟いた。
「…………」
 どこか嬉しそうな、それでいて寂しさも混じった表情だった。
「っていうか、元々あたしは大したことなかったんだけどね!」
 頭を掻いて、お姉ちゃんは苦笑する。
「……お姉ちゃん。あたしがピアノ始めた理由、覚えてる?」
「えっと、『どれみだけお母さんに習っててズルい!!』ってことだったよね」
 お姉ちゃんが、当時のあたしの口ぶりを真似して言った。
「それもあるけど……」
 あたしは、つい溜め息を漏らした。
 あたしがピアノを始めたのは、お姉ちゃんが前にやっていたからだった。お姉ちゃんはいつも、あたしより先を進んでいた。いつも何か楽しそうなことをしていた。魔女見習いになったのだって、お姉ちゃんがやっていたからだ。
 そうして、気が付けば今も、お姉ちゃんの通う美空中学校に進もうとしている。
「……ねえ。お姉ちゃんは」
 もう一度、ピアノを真剣にやり直そうと思わなかったの。そう言いかけて、喉の辺りでやめた。
「……やっぱり何でもない」
「変なぽっぷ」
 お姉ちゃんはシャープペンを机に転がすと、立ち上がってあたしのピアノに近付いた。それから「ドレミ」の音を軽くはじくと、片手で曲を奏で始めた。
「勉強、しなくていいの?」
「えへへ。休憩ターイム!」
 トロイメライ。それは、あたしがお母さんから初めて習った曲だったし、お姉ちゃんが昔よく弾いていたものだった。確かに技術はそう上手くなかったけど、なんだか懐かしくて、落ち着くメロディだった。
「ぽっぷはさ、中学校に上がっても、ピアノ続けるの?」
 ふいに、お姉ちゃんがそう聞いてきた。あたしは何を意図するのか分からなかったけど、その言葉通り答えた。
「そのつもりだよ。好きだしね」
「それならよかった」
 すると、お姉ちゃんは胸を撫で下ろしたようだった。
「よかった?」
 あたしが首を傾げると、お姉ちゃんは手を止めて、あたしの方を見た。
「いやあ、ぽっぷのピアノを聴くのが好きだからさ。それにあたしと違って才能があるから、やめちゃったら勿体ないと思って」
 そうしてまた、今度は両手で弾くのを再開する。
 お姉ちゃん自身が言う、「才能がない」というのは嘘だ。きちんと練習していれば、少なくとも今のあたしより上手くなっていたはずだ。でも、お姉ちゃんはこうして趣味程度で弾くことはあっても、コンクールに出る為の練習はしようとしない。あたしにとっては、それこそが勿体ないことに思えた。
 あたしは、お姉ちゃんのピアノを聴くのが好きだった。だからお姉ちゃんにこんなことを言われるなんて、なんだか不思議な、複雑な心地がした。
「どうしたの? そんな黙りこくっちゃって」
「へ? ああ、えっと……」
 誤魔化そうかとしたけど、やめた。あたしは正直に、でも抽象的に、お姉ちゃんに質問をした。
「……お姉ちゃんはさ、お姉ちゃんだから、右も左も分からない状態で何かを始めることがいっぱいあるよね。……それって、不安だったり、怖かったりしないの?」
 唐突な話だったからか、お姉ちゃんはきょとんとした。
「全然そんなことないさ! ……って言いたいところだけどね。やっぱり、怖いものは怖いよ」
 お姉ちゃんはそう言って、そっとあたしの頭を撫でた。
「例えば、魔女見習いを始めるのだって、ハナちゃんを育てるのだって、不安でいっぱいだったよ。でもね、あたしには親友達も家族もいるし……それに」
「それに?」
 お姉ちゃんは、にぱっと笑った。
「自分が『こうだ!』って信じた道だったら、堂々と進めばいいんじゃない?」
 あたしは、お姉ちゃんに何度励まされたか分からない。でも、あたしは決心した。お姉ちゃんの後追いだけを続けるのはやめよう、と。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「なに? 今日のぽっぷは甘えん坊だね」
 あたしは、お姉ちゃんの目をじっと見詰めて言った。
「あたし、カレン女学院に行こうと思う」
「うんうん。……って、ええーっ!!?」
 お姉ちゃんは、オーバーすぎる程リアクションを取った。
「ななな、何で急にそんな話に!?」
「駄目、かな?」
 あたしが小首を傾げて聞くと、
「……まあ、あたしは公立だし……。うーん、お母さんがパートでも始めれば……どうにかなる、かなぁ?」
と、苦い顔をしながらも、一応賛同してくれた。
「ふふっ!」
 嬉しいような、ほっとしたような、そんな気持ちが入り混じり、ついついあたしの顔はほころんだ。
「ちょっとぽっぷ! そうと決まったら笑ってるヒマなんてないよ! ピアノの練習頑張って、それから勉強もちゃんとしないと入れないんだから!」
「お姉ちゃんこそ、受験が近いんだからいつまでも休憩タイムじゃダメなんじゃない?」
「なにさー!」
「むー!」
 ふたりで顔を見合わせて、しばらく睨み合っていたけど、
「ぷっ!」
「あはは!」
その後、すぐに笑いがこぼれた。

 こうしてあたしは、お姉ちゃんとは違う一歩を踏み出した。不安なことだらけだけど、自分を信じれば大丈夫だって分かった。
 ……本当にピンチな時は、お姉ちゃんに助言してもらう、かも知れない。
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