妊娠カレンダー

 ピンク色のコンパクトな大きさの片手鍋の中に、グロサリーストアで買った舶来モノのチーズをすりおろす。中火でコトコト煮込んだら、とろけたチーズの幸せな匂いが溢れてくる。さあ、具材を用意しよう。スライスしたバケットに、星型のポテト、ハート型のにんじん、赤いウインナー、ベビーコーン、ブロッコリー、ふわふわのマシュマロ。チーズフォンデュには夢と幸せが溶け込んでいる。
 長らく架空のガーデンテラスで架空の友達と架空のチーズフォンデュを楽しむ侘しさに浸っていたボクだったけど、今日この日、ついにかねてよりの小さな夢叶えることに相成った。夢にまで見たチーズフォンデュを居間のちゃぶ台でぽつんと堪能するのは何とも間抜けだけれども。
 とはいえ4人の薄汚いハイエナどもが現れれば、味わう間もなくチーズは奪われ。あわよくば鍋にこびりついたチーズを舐める奴、火を通していないブロッコリーを貪る奴すら出て風情も何もあったもんじゃない。だからボクはこうして不本意ながらも草木眠る丑三つ時に、ひっそりと静まり返るキッチンで鍋に火を掛けていたのだ。

――とん、とん、と、ふいに誰かが階段を下りてくる音がして、ボクは耳をそばだてた。
足音の主はまっすぐこちらへ向かってくる。
ボクは幽霊の存在を信じたくないので、母さんか父さん、あるいは兄さんのうちの誰かであろうと予想する。ボクは落ち着かず、おたまで鍋のチーズをくるくるとかき回す。足音は次第にボクに近付いてくる。
「……何してんの、お前」
「おそ松、兄さん」
 例のごとく盛大に寝グセをつけたおそ松兄さんが、幽鬼のごとくゆらりとボクの背後に立っていた。ボクは内心で狼狽した。なぜなら、一番会いたくない人に会ってしまったのだから。
 おそ松兄さんはボクと鍋を交互に見やり、それからボリボリと頭を掻く。グラスを手に取って並々と水道水を注ぐと、何か思いつめた表情でそれをぐびりと飲み込む。まるで喉にこびりついた汚れを強引にそぎ落とすかのように。
 ぷは、と口元をパジャマの袖で乱暴に拭い、兄さんはボクを睨んだ。
「チーズってさ、腐ったザーメンみたい」
 兄さんはボクを睥睨したまま続ける。
「お前、よくそんなの食うよな。ねばねばして、舌にまとわりつくようで。においはおっさんの裏側を発酵させたみたい」
 ボクは兄さんを無視して、鍋底をかき回し続ける。
「変に人肌みたいな温度で、それが気持ち悪い。殺した豚の垂れ流すヨダレみたいな色も無理」
 ボクは耳を塞ぎたかった。
「そもそも、他の食べ物を取り込んで、べとべとに汚染するんだよな。元々は綺麗な色をしてた野菜も、チーズに包まれて汚されてぐちょぐちょのどろどろになる。お前は今からそんな趣味の悪いものを食べるんだ。な、トド松」
 兄さんは、チーズフォンデュとはいかに不気味でグロテスクで恐ろしい食べ物かということをとつとつと語り、眉をしかめては水道水をもう一杯飲み込んだ。
 それから、胸のあたりを指が白くなるほどきつく握り、よろけながら廊下へ出ていた。
 もう、チーズフォンデュを食べる気はとうに失せてしまった。
 長く火を点けたままにしていたから、真新しい陶器の底にチーズのコゲがこびりついてしまっていた。
 ボクは悲しい気持ちになった。



 数か月前のある朝帰りの日を境に、おそ松兄さんに奇妙な変化が訪れた。
 「におい」に対して過剰な反応を示すようになったのだ。
 元来おそ松兄さんは女の子の部屋のにおいに喜んだり、イケている人間が身にまとう香水を怖がるような、においに敏感な人だったけれど、今の兄さんのささくれ立った神経はその比ではない。
 ビールや日本酒・アルコールのにおい、母さんの作る食事のにおい、シャンプーや柔軟剤のにおい、一松兄さんが連れてくる猫のにおい、十四松兄さんの泥と汗のにおい、トト子ちゃんの魚のにおい。
 それらすべてを唾棄し、拒絶するようになった。

 兄さんは銭湯に行かず、家風呂の無香料のシャンプーで済ませるようになった。
 食事は栄養補助食品のスティックを水道水で喉に押し込むだけになった。

 迷惑なのはボクたち家族だ。
 ちょっと酒を飲んでも、どこかに出掛けて帰ってきても、「アルコールくさい」「ケモノのにおいがする」と難癖をつけられる。ボクらの部屋には無香料の消臭スプレーが必須になった。
 兄さんの神経は常に張り詰めていて、そこにはかつての穏やかさは少しも残っていなかった。最近の兄さんはいつでも眉をしかめていて、口をついて出る言葉は罵倒と憎悪ばかり。他の兄さんたちは、なるべくどこにあるか分からない地雷を踏まないようにするべく、おそ松兄さんとは距離を置くようになった。逆に、父さんや母さんは腫れ物を扱うようだった。
 元々が構われたがりで仕切りたがりだった兄さんは、そうやって家族から遠巻きにされることで、ますます焦燥感を募らせるようだった。兄さんの相貌は日に日に蔭が濃くなっていくようだった。
 けれどもボクにはどうすることもできなかったし、他の家族にしたってそうだろう。

 おそ松兄さんはしばしば吐いた。
 たとえば一昨日、カラ松兄さんが逆ナンされてしこたまぼったくられて帰ってきたけれど、その際に服に染みついた香水とブランデーと煙草のにおいを指して、おそ松兄さんは嫌だ嫌だと喚き散らした。チョロ松兄さんが慌ててカラ松兄さんの全身に消臭スプレーを吹きかけたけれど、おそ松兄さんは狂ったように頭をがりがりと掻き毟りながらトイレへ駆け込んだ。兄さんの胃の中には水と栄養補助食品のかけらしか入ってないから、吐き出すものはおおよそ胃液だけだろう。酷い時には自分の吐いたもののにおいにあてられて、脱水症状を引き起こすまで嘔吐し続けるのだった。
 おそ松兄さんがトイレへ籠ってげえげえ言うのを聞くたびに、他の兄さんたちは居心地が悪そうな、なんとなく罪悪を背負っているような顔をする。
カラ松兄さんなんかはいつも決まって、おそ松兄さんがげっそりとした顔でトイレから出てくるのを見計らって、天然水のペットボトルを渡したり、物々しく背中をさする。なまじプライドの高いおそ松兄さんにとって、弟にそうやって憐れまれることは屈辱なのか、カラ松兄さんが気遣いの言葉を投げかけるごとに、下唇をぎりりと噛んでいる。
ボクはといえば、兄さんの発作的嘔吐が起こると必ずヘッドホンをして、スマホのボリュームを最大値まで上げて、適当に探した動画を見るようにしている。一松兄さんはそんなボクを一瞥して「お前、やっぱりドライモンスターだ」と吐き捨てたことがあった。みじめなほど繊細な一松兄さんは、おそ松兄さんの調子がおかしくなってからは、つられるようにして食欲不振になってしまった。
ボクにとっては、カラ松兄さんも一松兄さんも、おそ松兄さんも等しく滑稽に思えた。

 勿論、兄さんがおかしくなってから一週間くらい経った頃に、ボクら兄弟は兄さんを強いて最寄りの病院に引き摺って行った。兄さんは医薬品のにおいが気持ち悪いと泣きじゃくっていた。
検査の結果、兄さんの身体には異常が見つからず、精神科の受診を薦められた。しかし兄さんは、今日に至るまで精神科の門を叩いていない。
 兄さんは子供部屋のソファに寝転がり、自らを蝕むにおいに怯えながら、壁や天井を睨んで毎日を過ごしている。
 まるでおそ松兄さんにつわりが訪れたようだ、とボクは思う。
 病人みたいに精神が昂っていて、普通なら全く気にならないようなにおいなんかで、もがき苦しむ兄。
 兄の胃の腑に何某かの精液が流し込まれ、新たな生命体が細胞分裂を繰り返すさまを想像しては、ボクまで気分が悪くなりそうだった。



 朝食を済ませて、歯磨きを念入りにこなして、それからボクは2階へ上がり、死体のようにソファに転がっている兄さんへ声を掛ける。
「おはよう、おそ松兄さん。もう10時を過ぎてる」
「……ん」
 おかしくなってしまった兄さんは、従来の六つ子布団で眠ることを拒絶し、ひとりソファに横たわって睡眠をとる。毎日洗濯機に掛けられる毛布に包まり、さなぎのようにこんこんと眠る。1人だけ別の部屋で寝る、という発想には思い至らないところが、いかにもおそ松兄さんらしいと思う。
 ともかく、本日の長男起こし係はボクだった。ボクは兄さんから毛布をはぎ取ると、パーカーとジーンズを渡し、着替えを促す。兄さんがこうなってしまってからは、毛布もパジャマもパーカーも、兄さんが身につけるものは毎日洗濯するようになった。以前より清潔になったといえば聞こえはいいが、大変なのは老体に鞭打って毛布を干さなくてはいけない日課ができてしまった母さんだ。
 パジャマと毛布を洗濯槽に投げ入れ、スイッチを入れる。ボクの当番の仕事はこれで終わり。今日はジムへ行く曜日だったな、と思い出したところで、再び2階へ上がる。
 パーカーに着替え終わった兄さんは、先ほどから何ら変わらずソファに横たわっていた。ただぼんやりと天井を睨むその姿は、人間というよりマネキンのようだ。
 兄さんは一日の大半を子供部屋のソファで過ごしている。何を考えているのか、何も考えていないのかはボクらには分からない。兄さんが他にやることといえば母さんや兄弟が買ってきた栄養補助食品を口に詰め込むか、水道水を飲みに階下へ降りるか、突然思い立ったように風呂場へ行き狂ったようにシャワーを浴びるだけだ。
 ボクは特別兄さんに声を掛けず、荷物をまとめて(無香料の制汗スプレーも忘れずに)、部屋を出ようとする。
 だから、兄さんの方から言葉を投げかけられたとき、ボクはそうとう驚いた。
「お前らさぁ、俺のこと、気違いだと思ってるだろ」
 ボクは、唐突な兄の問いに、何と答えればいいものか判断ができなかった。
「なあ、そうだろ。俺が『においが、においが』って騒ぎ立ててるのを、馬鹿みたいだと軽蔑してる。病人もどきだ」
 ボクは兄に背を向けたまま言った。「兄さんがそう思うなら、精神科でも心療内科でも受信すればいいじゃん」
「病院でクスリを貰って、それを飲んで、この世から嫌なにおいが消えるとは俺は思えない」
「だからって、こうやって毎日天井のシミを数えて過ごすのが得策なの? 兄さんはこの狭い子供部屋で悶えながら一生を終えるつもりなの?」
 思わず、ボクの語調は強いものになってしまっていた。兄さんはぴたりと押し黙った。ただでさえ四六時中不機嫌な兄さんが、苛立ちを募らせている証拠だ。これが事なかれ主義の一松兄さんや十四松兄さんだったら、これ以上おそ松兄さんの怒りを買うようなことはしないだろう。
 だけどボクは、このみじめで哀れな長兄のことが、そうとう腹に据えかねていた。
 
 ボクは手にしていたバッグを投げ出すと、兄さんの方に向き直る。そうして口を開いた。
「――ッ! おそ松兄さんのわがままで! どれだけ他の兄弟が迷惑してると思ってるの!?」
 兄さんは目をかっと見開いた。苛立ちと嫌悪と不快感以外の表情を見るのは、久しぶりだった。
「カラ松兄さんはお気に入りのシャンプーが使えないし、綺麗な花も香りがするから買えないって言ってた。チョロ松兄さんはトト子ちゃんに会えないことを嘆いてた。一松兄さんなんて、猫しか友達がいないのに、なるべく服ににおいが移らないように近くで眺めることが精いっぱいだって。十四松兄さんは服が汚れることと汗をかくことを気にして、思うように体を動かせないみたいなんだ」
 気付けばボクは、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ボクだって! 友達と遊んで帰ってくるだけで! おそ松兄さんに心無いことをまくしたてられる! 好きなものを食べようとすれば、こっちまで吐き気がしそうな言葉を並べたてられる!」
 兄さんはおしのように黙っていた。その目には、驚愕と恐怖が滲んでいたのが見て取れた。
「このままじゃ、ボク達も、父さんや母さんも、家族全員がおかしくなりそうなんだよ、おそ松兄さん。ねえ、兄さん。一体何が兄さんをそんなに苦しめるの。兄さんは腐ってるんじゃないの」
 ボクの目からは、雫がとめどなく溢れ続けていた。気違いになってしまった兄さんが、心底憎かった。それでいて、どうしようもなく可哀想だった。

「ああ、そうか」
 ふいに、兄さんは口の端をゆがめた。
「俺の体が腐ってるんだ」
 兄さんはよろよろと立ち上がる。ここ数カ月、栄養補助食品と水以外のものを口にしていないから、肌は青白かった。まるで、ゾンビみたいだ。
「口の中に、胃の中に、腸にぶちまけられたザーメンが、ヘドロになって、俺の体をぐちゃぐちゃに腐らせてる。内臓がにおうんだ。そうか、そうか。なんで俺はそんなことに気付けなかったんだろう」
 覚束ない足取りで、ふらふらと風呂場へ向かう。
「くさい、汚い、気持ち悪い……」
 うわごとのように、ただそれだけをぶつぶつと口の中で言う。
 やがて、水圧を「強」に設定したシャワーの、土砂降りの雨みたいな音が聞こえてくる。兄さんの嗚咽と、えづきがとぎれとぎれに混ざる。
 ボクはスマホを手に取り、インターネットブラウザを立ち上げる。「赤塚 精神科」と検索ボックスに入れて、エンターボタンをタップした。
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