● Bloody Clumsy  ●

 現時点で気に掛かっていることはふたつある。
 ひとつは近頃の寒さのせいか、手があかぎれだしたことだ。毎日調理場に立っているから致し方のないことではあるが、やはり痛いものは痛いし、衛生上もよろしくない。知人の脳が筋肉でできていそうな某剣道家は「修行が足りないからそうなる」と言っていた。しかしおれは氷点下に半裸で竹刀を振り回すような変態と化して寒さ耐性をつけるよりかは、皿洗いで冷えた指をそっと素敵な女性に温めてもらいたい。今のところ、それをしてくれそうなガールフレンドはいないのだが。そのうち、麗しのナミさんにでもおすすめの保湿クリームを教えてもらうことにしよう。できることならばナミさんのお下がりが欲しいけれど、贅沢は言わない。
 それから、もうひとつの気になることであるが――
「…………」
 おれは立ち止まり、ちらりと後ろを振り返る。黒い格好をした男が、そっと物陰に隠れる。おれが再び歩き出すと、そいつもまた歩き出す。
つまり、おれは現在何者かにつけられている。
 尾行されるような心当たりはある。おれが働いているレストランで男性客の恨みを買ったことは一度や二度の話ではないのだ。そいつらに闇討ちされそうになるたび、おれはキックボクシング部で鍛えた脚技で文字通り一蹴してやる。
 そう機会を伺っているのだが、奴はまだ本格的な行動を取らない。おれの家の所在がこの手の輩に割れるのは喜ばしくないので、早く処理したい問題である。
 そういうことで、おれは再度立ち止まり、がばりと後方に向き直る。男は慌てて電柱の後ろに引っ込んだ。
「おい、そこのストーカー男」
 おれは臆面もせずそいつに語り掛ける。するとそいつは、不思議そうにきょときょとと辺りを見回した。この状況下で、お前以外にストーカー男がいるというのか。おれはちょっと脱力して、黒服男を指差して言う。
「お前のことだよ!」
「あっ! バレた!!」
 男はきまり悪そうに電柱の陰からのそのそと這い出てきた。黒い服だと思っていたそれは漆黒のマントで、閑静な夕暮れの街に似つかわしくないド派手な赤いシャツを着ていることが分かった。
「さっきから人をつけ回して、どういうつもりだ?」
 マント男は一瞬目を丸くすると、「そんなの、見りゃ分かるだろ」と何故か胸を逸らした。
 おれは、もう一度男を頭のてっぺんからつま先までまじまじと観察する。黒い髪で黒いマント、赤いシャツに白いナプキン、それに、季節外れでミスマッチにも程がある麦わら帽子を首にかけている。つまるところ、見ても不審人物ということしか分からない。
 おれが途方に暮れていると、そいつは嬉々としてこう言うのだった。
「おれはモンキー・D・ルフィ! 吸血鬼だ!!」
 おれはなんとなく狐に包まれた心地がして、「そうか、頑張れよ」とだけ言って、その場を立ち去ろうとする。
「お、おい! ちょっと待てって!!」
しかし、ルフィと名乗った自称吸血鬼は、おれの正面に回り込んで通せんぼをする。北風が冷たく、指先がかじかむ。早くマンションに帰り、暖房をつけた部屋でリラックスしたい。
「どこに行くんだよ!」
「お前に教える筋合いはねェ」
 おれがそう言い放つと、そいつは「あー、それもそうだよなァ」とひとりで納得するが、すぐさま「って、それじゃおれが困るんだよ!!」と叫ぶ。全く、面倒なことになった。
 この手の輩は関わらないのが一番だが、もう関わってしまった以上、簡単な用件なら済ませてしまった方がいいのかもしれない。
 おれは頭を掻き、「一体、お前の望みは何なんだ? 場合によっちゃ協力してやらんこともない」とそいつを睨むと、奴はぱっと表情を明るくした。
 そうして、声を弾ませる。
「うん、あのさ、お前の血を飲ませてくれよ!」
 おれはキックボクシング部で鍛えた脚力をそいつの顔面において遺憾なく発揮し、それから振り返らずに走り出した。

「……はぁ」
 マンションに着く頃になると、おれは少々息があがっていた。流石にこの年になると体力の衰えを感じてしまう。アホのマリモにバカにされそうで嫌になる。
 ともかく、ドアノブを捩り、無事にマイルームへ帰還する。全く貴重な経験をした。今度酒を飲む時にでも、与太話好きのウソップにでも教えてやろう。
「ただいま」
 ひとり暮らしではあるが、玄関に上がる時にこう言うのがおれの習慣となっている。靴を脱ぎ、荷物を放り、お気に入りのソファに腰かける。これがくたびれたおれの至福の瞬間なのである。
「おかえり」
 しかしながら、本日のソファには先客がおはしました。ワイングラスを片手に、おれの秘蔵桃色雑誌をテーブルに広げ、マントをブランケット代わりにしているくつろぎようだ。先程蹴り上げた頬には白い湿布が貼られている。
「いやいやいや……」
 おれはかぶりを振る。言いたいことはいくつもあるが、とりあえず桃色雑誌は表紙を閉じておく。
「ニンゲンはこういう本が好きなんだなァ。おれ、こんなの初めて見たよ!」
 尚も桃色雑誌の表紙を興味津々と言った様子で眺めるそいつをソファから引き剥がし、床に鎮座させる。
「吸血鬼ってのは、個人情報解析とピッキングに長けてるのか?」
「失敬だな! 人を泥棒みてェに!!」
 実際不法侵入しているのだから吸血鬼も泥棒も似たようなものだと思うが、奴は開け放たれた窓を指差す。
「使い魔のチョッパーにお前のニオイを辿らせて、そこの窓から入って来たんだぞ!!」
 そういえば、今朝は洗濯物を取り込んだ後の施錠を怠ったような気もする。高層マンションだから窓から闖入する者などなかろうと高をくくっていたのだ。
 おれは北風が容赦なく入り込む窓をしばし呆然と眺める。
「……もしここから蹴り出したら、てめェは死ぬのか?」
 奴の腕を掴み、すらりと脚を構えると、男は腕の中でもがく。
「し、死ぬに決まってんだろ!! お前は吸血鬼を何だと思ってるんだ!?」
「ストーカーか泥棒の仲間」
「尚更死ぬだろ!!」
 男は腕を振り払い、それからおれに縋り付く。
「頼む、ひとくちでいいから、おれにお前の血を吸わせてくれ!!」
「ひとくち喰らいついたら最後、一滴残らず吸い尽くす心積りだろ」
「そそそそそんなこと、ねねねねェよ!!」
「嘘、ヘタ!」
 おれは奴の脚を軽く払って、尻をつかせる。それから脚をちらつかせると、男は怯んだように2、3歩後ずさりした。
「だいたい、何でおれの血を吸わなきゃならねェんだ。空腹か?」
 男は、大きな腹の音を鳴らした。これはやはり気を許せば吸い尽くされると思い、おれは眉を顰める。
「い、いや、腹は減ってるけど! これはそういうことじゃねェんだ!」
 男は弁解するように両手を振って、それから少々神妙な顔をした。
「……これはなァ、一人前の吸血鬼になるための試験なんだ」
「試験ん?」
「そうだ。今どきの吸血鬼はニンゲンが考えてるようなのとは違って、そんなに毎日血ばっかり吸ってる訳じゃねェんだぞ? でもな、吸血鬼が18歳になった時には、一人前として認められるために試験があるんだ。エースもサボも、何年か前に試験を受けて、今では立派に吸血鬼やってるんだ」
「誰だよ、エースとサボって」
「おれの兄ちゃん達。それで、とにかく、試験期間中に誰かニンゲンの血をひとくちでも飲めば合格なんだ。でも、おれ、なかなかうまくやれなくて……」
 吸血鬼見習いが語るところによれば、試験期間はおれ達の時間で一週間ほどだという。奴はこの期間中何度となく人間に時には懇願し時には襲い掛かり、その都度逃げられたり返り討ちにされたらしい。
「それで、今日がもう最終日なんだよ! もし試験に合格できなかったら、おれ……」
 そこまで言って、そいつは深くうなだれる。ついでに腹の虫も鳴る。その深刻なんだかそうでもないんだか分からない様子に、ついおれは続きを聞く。
「……失格したら、どうなるんだ?」
「一人前の吸血鬼になれない」
 知ったことか。一人前の吸血鬼になど、ならんでよろしい。どうにも力になれそうにないので玄関から返そうかと考えたが、切羽詰まったこいつが素直に出て行くだろうか。
ふと、おれにひとつのアイデアが浮かぶ。
「……分かった。そこまで言うんなら、おれの血液を与えてやろう」
「ほ、ホントか!?」
 奴が勢いよくおれに飛びかかろうとするのを足蹴にして、おれはそいつに言い放つ。
「だが、お前は空腹だろう?」
 奴はうずくまりながら、腹を抱えてこくりと頷く。
「折角だから、おれの血で料理を作ってやるよ」

「覗いたら窓から蹴り捨てる」
 そう言い放ち、おれはキッチンに立つ。冷蔵庫を開けて、ケチャップ、タバスコ、パプリカ、ホールトマト、唐辛子、イチゴ、キムチ、しそ、とにかく目についた赤い調味料や食材をかき集める。今どきの吸血鬼がこんなもので騙せるのかと思わないこともないが、実際に血を分け与えるなんて御免こうむる。
 ミネストローネ、ミートソース、トマトサラダ、ストロベリータルト、赤じそジュース、思いつく限りの赤が強い料理をガンガン作る。
「オラ、できたぞ」
 そうして、やはりおれの桃色雑誌を広げていたそいつにテーブルを片付けさせ、作った料理をずらずらと並べる。
「うおおっ、うまそー!!」
 そいつは料理を見るなり、目を輝かせたが、おれの方を振り返ると表情を曇らせた。
「お前、その包帯……」
 おれは、全ての料理が終わった後に、腕や足に包帯を巻きつけた。いかにも切りつけて血を採取しましたよ、という具合に見せるためだ。奴が心底申し訳なさそうな表情をするので、包帯を巻くのは指先だけでよかっただろうか、と少々後悔する。
「まあ、気にするな。冷めないうちに食え」
 おれが料理に向き直らせると、そいつは少しばかり逡巡して、それでも「いただきます!」と手を合わせた。
「!!! おれ、こんなにうめェ料理、初めて食うぞ!!」
 そいつは品の欠片もなくガツガツと料理を喰らう。おれが働いているレストランでこんな食い方をする客がいれば、締め出しモノだろう。
「うわぁ、このスープもうめェ! こっちのデザートも!!」
 しかし、こんなに美味そうにおれの料理を口にする奴は、随分久し振りに見た気がする。そいつはひとくち食べるたびに顔をほろこばせ、心底幸せそうにするのだった。
 不本意ではあるが、誰かのためにこんなに熱心に料理を作るのも久々だった。結構、楽しかった。
「そりゃ、よかったな」
 おれがそう呟くと、奴は驚いたように目を丸くする。
「……お前、笑うんだな」
「はぁ?」
 どうやらおれは知らず知らずのうちに破顔していたようだった。
「お前の笑った顔、好きだぞ」
 そうして、ルフィはくつくつと笑った。
「吸血鬼の、しかも男に言われても嬉しくないね」
 おれは知らん顔をして、タバコに火を点けた。



 まったく、それは奇妙な一日だった。
 その後、満腹になったルフィは「色々、ありがとう!」と笑って部屋を出ていった。その屈託のない笑みに、騙した罪悪感を覚えて少々心を痛めた。
 それから、音沙汰はなかった。相変わらずおれは平日はレストランで働き、休日は友人と飲みに行った。吸血鬼のことは、誰にも話さなかった。
 そうして、半分忘れかけたある日だった。
 おれがドアノブを開けて、相変わらずひとりで「ただいま」と言い、ソファに腰かけた時、テーブルに覚えのないメモ書きと乱雑に包装された小包が置かれていた。
「『おまえのおかげで合かくできた。ありがとう』」
 おれはソファにもたれかかり、メモをピラピラさせながらタバコに火を点ける。
「……トマト料理でいいのかよ」
 近頃の吸血鬼業界はいい加減だな、と思いつつ、紙切れをテーブルに戻す。
「っ痛!!」
 ところが、紙の角で指を切ってしまい、そこから血が溢れてきた。絆創膏をつけるほどでもないので、流れる血を紙に押し付ける。
「あの時指に切り傷でもあれば、料理に混ぜ込んだのに」
 そう呟いて、紫煙を吐く。保湿クリームで潤いを保った自身の眺めながら、ふと、あの日のことが頭を過る。
「……あかぎれ」
 そういえば、あの頃は乾燥肌に悩まされていた。あれだけ大わらわで料理を拵えたのだ。血の一滴や二滴が混入しても、何ら不思議はない。
「……ホントに、ひとくちでよかったのか」
 おれはなんとなく笑いたくなって、ひとりで「ははは」と声をあげた。それから、ルフィの置き土産であろう小包をがさがさと開けた。
 あいつがくつろいでいる時に傾けていたワインだった。おれは栓を抜き、ルフィがそうしていたように並々と注いで、口をつけてみる。
「……甘ェ」
 料理酒にでも使おうかね、なんて考えながら、おれはワインを喉に流し込んだ。
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